第48回 食卓こそが家族 田中尚人
2009/06/03 水曜日

僕は、家族の家族たる「ゆえん」は、食卓だと信じている。
食卓とは、むろん家具としてのテーブルや、ちゃぶ台などの食卓ではなく、
家族揃って同じものを同じ時間に一堂に食す、という食事をしている時間のこと。そして、その食事時間を楽しむために、献立を考え、調理し、後片付けする時間も食卓の一部だと思っている。
「家族」の原点は、得た食料を近しいものに優先的に分配する単位、
つまり共生のための最低単位なのだ。
食料が定期的に収穫できるようになり、備蓄できるようになるにつれ、
その備蓄「財産」を守り引継ぐシステム、「家系」が必要となり、
その出発点が一組みの夫婦、ということになるわけ。
制度としての結婚は、血族の財産を守るために、交雑を社会全体でタブー化するシステムであるから、元々がネガティブなものだったといえる。
つまり妻に他のオトコの子を産ませてはならぬ、という縛りだ。
だから、日本の明治大正期の裕福な男は、守るべき財産に余裕がある分に限っては、他に家族を持つことが社会慣例的に許されていたわけ。
一夫多妻性もオッケーな一部のイスラム社会では、幸せにできるだけの妻をめとってよい、とされている。
7人の妻がいれば、7人平等に愛情と財産を注ぎ、分けなければならない。
当然、寝床も7日間毎日別々の妻のもとに行かねばならない。
ひゃ〜、大変だねぇ。
だからといって、法典を信奉する全てのムスリム(イスラム教徒)が、複数の妻を養っているわけではなく、現実は殆どが一夫一婦。
とはいっても、これは家父長制をベースにした、男だけにとって都合がよいシステム。
本来なら同等に女性にも、その権利保証しないと、だよね。
まぁ、結婚制度がいくらネガティブであろうが、男だけに都合がよいシステムであろうが、それに安住している女性たちもたくさんいるはずで、僕がいまこの場で論戦をはっても面白味がない。
妻には叱られそうだが、一生涯を通じて変らぬ愛情を持ち続ける、というのは、実際、どうなのだろうか。
「死がふたりを分かつまで、妻を愛することを誓いますか」なんて、誓約や法制度で縛らないとままならないのが、一夫一婦制とも言えそうだ。
色々な局面の中で、時には温かさや喜び、幸せを感じたり、時にはそれが重いストレスや憤慨になったり、というのが実際の姿なのではないだろうか。
あんまり熱く持論展開すると、「わたしが、いつアンタのストレスになったってわけ?」と妻にツメられるので、「多夫多妻制」を夢みつつも、コメントはこのへんにしておこう。
食卓の話だ。
僕が食卓に意識を向けるようになる、大きなきっかけになった本がある。
哲学書でも、料理本でも、育児書でもない。
五味太郎の「みんな うんち」という絵本だ。
絵本の最後は、「いきものは たべるから みんな うんち するんだね」という結びの言葉。
僕は、初めてこの絵本を読んだとき、この言葉にまさに雷に打たれる程の強い衝撃を受けた。
僕は家族を満足に食わすために働いている、と思っていた。
しかし。
「たべるから うんちする」、つまり食べるため→うんちをするために生きている、→ 働いているのだ、とこの絵本は胸を張っていたのだ。
僕は・・・家族にウンコをさせるために働いて・・・いる!
であれば。
いいウンコをさせるためには、いい食材を、きちっと調理して、バランスよく食べさせなければならない。
いいウンコをさせるためには、心も健康でなければならない。
便秘や下痢にさせないためには、笑顔が多い、楽しい家庭でなくてはならない。
だから、食事は、なるべく大人数で、ストレスなく、笑顔でおいしくいただきたい。
要するに、いいウンコができる、という環境作りこそが、家族を心身共に健全な状態を作り出すための僕の使命だったのだ。
なんとういう深遠な真理。
それがこんな幼児向けの絵本に、さりげなく語られているなんて。
絵本、恐るべし、だ。
ということで、いいウンコを育むために、最大限の力を注ぐのが親の仕事であると、僕は悟ったわけだ。
だからこそ、「食卓」なのだ。
これは、グルメになって旨いものを食わせよう、ということではない。(詳しくは前回のブログへ)
朝晩の食卓は、多少無理をしてでも、可能な限り家族全員で囲む。
笑いも、時には喧嘩もあるだろうが、家の外でつけていた仮面を外した状態で食卓の席につく。
にぎやかに食べる。
家族の笑顔は、お父さんが作り出す。
用意と後片付けも、年齢性別の区別なく、にぎやかに行う。
ウンコのコンディションを家族で報告しあう。
食事中ぐらいは、テレビを見ずに、家族を見る。
家族が無事に食卓につけたことを皆で喜びあう。
その気持ちを「いただきます」「ごちそうさま」という言葉にこめる。
家族の原点である「食卓」を守るため、父親は妻と協力しあい、子どもにそれを見せびらかし、時には孤軍奮闘する。
しかし、あまり勢い込んだり、義務として背負い込んだり、家訓としての形式だけにしてしまうと、「食卓」は途端に家族全員にとって苦痛やストレスの種となってしまう。
食事中にちゃぶ台をひっくり返す「星一徹」もたまには仕方ないけれど、
普段は、食べ物を分配しながら、会話と笑顔もお互いに分け合いたい。
と言いつつ。
なかなかこれが難しいんだよね。
せっかくパーフェクトな段取りで作ったのに、何度呼んでも食卓につかない。
せっかくのタイミングで皿に盛った熱々の出来立てを、すぐに食べてくれない。
せっかく手間ひまかけて作ったのに、付け足しで出した冷凍食品のほうが旨い、と言われてしまう。
せっかくうまく味付けしたのに、「イマイチ、薄い」とか言われて、塩、醤油などをかけられてしまう。
食い方が汚い。
褒めて欲しいのに、コメントが頂けない。
完食後にオレの目を見て「ごちそうさま」と言ってくれない。
「父さんのトンポーローを、また食べたい」「ひさしぶりに、父さん特製のラーメンが食べたい」など嬉しがらせる一言が少ない。
普段のゴキゲンな時は、なんでもないことなんだけど、仕事や人間関係が思った通りにいってなかったり、寝不足だったり、歳のせいか、なぜかムカムカモードだったりすると、なにかが引き金になって「大魔神」と化してしまう。
怒りながら、狭量な自分に更にムカムカする。
開き直るつもりはないけれど、まだまだ、親として以前に、人間としての修行に時間がかかりそうだ。
この連載では、たくさんの生意気を書かせて頂いたが、僕自身、子どもも一丁前に独立したわけではないし、これからどんな不良になるかも分からない。
僕自身が親として、大人として、だぶんまだ一丁前ではないのだ。
多夫多妻を夢に見つつ、妻の力を借りながら、その日その日の食卓をうまく楽しく重ねて行くしかない。
次回は、このコーナーを執筆してくれた、安藤パパ、金柿パパ、奥平パパ、川島パパ、そして今回の滝村パパと紙上トーク企画を考えてます。

