第16回 お粥の作りかた 田中尚人

2008/04/16 水曜日

イラスト
 
いつもの食品が、おかしなことになってきた。
パンが高い!コーヒーも缶詰も、グッと高くなった。
なによりも、バターが手に入りづらい!
バターがなければ、マフィンやバゲットがちっとも旨くない。
オムレツだって、ムニエルだって、サラダ油ではふんわりした香りが立たない。
コーンスープのコクも足りなくなる。
バターは無いくせに、牛乳はヤケの安売りが目立つんだけど。

バイオ燃料需要や原油高騰など、理由はわかっているつもりだ。
乳牛が乳を出さないのではなく、飼料が高くなったのだという。
であっても、バターそのものが品薄になる理由は、よくわからない。

無いと余計に食べたくなるから不思議だけど、穏やかに忘れることにした。
だって、食品が安定して手に入る、というよりも店には捨てるほど溢れかえっていた今までのほうが、実は極端に異常なことなんだから。

というわけで。
いい機会だから、朝食にはお米をもっと食べよう。
納豆も、少し前の大流行が冷めて、3パックで100円を切るほど安くなっていることだし。

お米ばかり食べてたら、太っちゃうじゃないの・・・。
わはは。それも身にしみるほどわかる。
だから、僕は粥を提案したい。
粥はちょっとだけ時間がかかるけれど、簡単で、なおかつヘルシーだ。
水で膨らませるだけだから、満腹感の割にカロリーは少ない。
体を冷やす食品が多いコンチネンタル系の朝食に比べ、粥は体を温めてくれるし。

香港や台北で迎えた朝、屋台でフハフハとかき込む中華粥は、深い香りとコクと、超絶の熱さがヤミツキになった。
一つの大鍋でくつくつと煮込んだ素の米粥に、蒸し鶏などをトッピングして食べるわけだけど、これが妙に後をひく旨さで、つい余計に食べてしまったものだ。

日本では、余った冷飯を煮て作るのが一般的だけど、本場ではお米から煮るらしい。
そうすると、お米本来の香りやコクも出るし、お米がふやけ過ぎて糊状にならない。鳥のスープも浸みこみやすいように思える。

僕がよく作る粥は、鳥モモを小さめに切って多めの水で煮てダシを取り、そこに冷飯を投入し、塩をほんの少し入れて30分ほど煮込んだシンプルなもの。
これに特製のタレを好みでかけて食べる。
特製タレは、醤油大さじ2に対して、酢小さじ2、オイスターソース小さじ1、ごま油小さじ1、ネギのみじん切り、ショウガみじん切り少々、白ごまを混ぜたもの。ピリ辛が好きな人は、ごま油の代わりにラー油を混ぜてもイケるはずだ。
男にもチャレンジしやすい割に、奥が深いのがミソだ。
これとは別に、わが家ではいくつかの自家製の醤油ダレを常備している。

まずニンニク醤油。
作り方は極めて簡単。きちっと蓋が閉まる容器に、ニンニクの皮を剥いたものをどさっと入れて、特売で買ったさほど上等でもない醤油で浸すだけ。冷蔵庫で二週間以上放っておけば出来上がり。
この醤油は、中華系のすべての隠し味になる万能ダレだ。
醤油の染みたニンニクは、しょっぱいけれどスライスしてチャーハンなどにも使える。

それから、唐辛子醤油。
青唐辛子のさやを取って、種付きのまま細かく輪切りにして、同じくどさっと密閉容器に醤油で漬け込むだけ。一週間ぐらいで漬け上がる。
このタレは、冷や奴にすごく合うんだなぁ。
注意点が二つある。
湯豆腐では、辛くてヒーヒーしてしまうこと。
青唐辛子を切る時は、素手でやると、爪の間や指の付け根に辛さがしみて、エラい目に遭うこと。ビニール手袋の着用をオススメしたい。

とはいえ。
粥やタレの話で終わるつもりではないのだ。
バター不足など、食料や日常の必需品の値上がりや品不足が起きると、誰だって不安を感じるはずだ。
ものごとが安定していないことに、慣れていない我々日本人には殊更だ。

我々の社会では、バランスが取れていることが、仕事でも人間関係でも重要視され、美徳とされているが、人間関係作りがヘタクソなアーティスト、変人の発明家、言葉が汚くて行儀が悪いけど、部下に慕われる上司とかとか、かえってバランスが傾いている人のほうが、斬新な発想や際立つ行動力を見せるケースをよく見るし、人間関係でも当たり障りない八方美人的な人付きあいが、果たして本音を言いあえる関係かどうかは、とても怪しい。

ワークライフバランスなんて格好のいいカタカナ造語もあるが、シーソーみたいに仕事と家事を常に半々でバランスを取ることが、果たして現実的に可能なのか、僕には実はよくわからない。
だいたい日本人って、両立って言葉を振り回しすぎだよね。
生理中に、普段通りの笑顔で仕事しなくちゃいけないのが、両立?
好きな子が出来ても、いつも通りの受験勉強と両立できる?
腹が減ってる時も、妻の小言を穏やかに聞き流せる?
生理現象やホルモン作用は基本的に理性とは両立しないよね。

僕の人生は、仕事と家庭だけじゃなくて、子どもっぽいって言われちゃうけれど、自分自身の楽しみや時間作りだってあるのだ。
仕事、家庭、自分という3つの点を調和させるには、シーソーみたいな2つの点を結ぶ線としてではなくて、面としての付き合い方があっていいのではないか、と思えるんだ。

それは、バランスのとれたポジションよりも、確かに不安定な足場ではある。
必要に応じて、重心を変えながら自分なりの調和をはかるしかない。

知っての通り、うまく行くことが保証されたものなど、何ひとつない。
子育てにしたって、これをしていれば子どもはマトモに育つ、とか、この会社に入れば、この株に投資すれば、この人についていけば、この夫なら、この食材なら、この国なら、とかとか、ね。

だから、バターが無ければ、心配して右往左往するんじゃなくて、
何か違う楽しみを探し出せる余裕というか、図太さがあったほうが、毎日が気楽なんじゃないかな、と思うんだ。
無いことを我慢しろ、辛抱強くなれって言ってるわけじゃないよ。

そんな不安定さ、不条理さ、意味不明な雑多さみたいなものに対する受け皿がもっともっと広くなると、その受け皿に入るものが増えるわけで、入ってきたものは、「ま、いいか。まとめて面倒見ましょう」ってな感じで、細かいことに気がつかなくなるわけ。

それは、食材ひとつひとつの味が主張しあうのではなく、煮込んで解け合うことでなぜかうまく調和する、まさにお粥の世界なんだなぁ。