第29回 子どもが親に刃向かうわけは・・・ 田中尚人
2008/10/08 水曜日
子どもほど自分勝手で、聞き分けの悪い生き物はいない。
子どもほど、感情や欲望のコントロールがヘタクソな生き物もいない。
だけど、上には上があるもので、子どもより身勝手で、融通が利かず、自制心が欠落している生き物がいるのだ。
僕を含む、親という生き物だ。
子どもへの注意は、その典型と言える。
「遅刻するから、早く着替えなさい」 (保育園に遅刻したって、子どもにはなんらデメリットはないはず。自分が会社に遅れたくないのだ)
「砂場では、オトモダチと仲良くしなさい」 (喧嘩をされて、相手の親とトラブルになるのは、絶対に避けたい)
「宿題を先に済ませてから、遊びなさい」 (実際にそうやって、ゲームしていると、「夜遅くまで、ゲームしてはいけない」と言われる)
こうした小言は、子どものしつけ、というよりは、親の気分の問題であることを自覚しているかどうかは別として、事実はそういうことなのだ。
次の小言だって、似たりよったりだ。
「手を洗いなさい」
「鼻をかみなさい」
「歩く時は、砂利や石を蹴ってはいけません」
「お客さんに、きちんと挨拶しなさい」
「夜に口笛吹くの、やめなさい」
「ポケットから手を出しなさい」
「はっきりと返事しなさい」
「貧乏揺すりはやめなさい」
「靴下を脱ぎっぱなしにしない」
「勉強机の上を、片付けなさい」
よくよく考えてみると、しなかったからといって、病気になるわけでも、重大な事故を引き起こすこともない。
それに、それを注意したからといって、根治治療はほぼ不可能であることも、僕はよく分かっているつもり。
要するに、たいして重要でないことを子どもにぶつけることで、彼らの従順度を測りたいだけなのかもしれない。
ところが、気分で怒ったり、小言を言っていることを無意識に恥じているためか、小言を言うための正当に見えるような理屈をつけてしまうのだ。
つまり、「あなたのためを思って言っている」のだ、と。
マトモな大人になってほしいから、と。
しかし、こうした小言が聞き入れないとなると、
「どうして親の言うことが聞けないのか」と激怒し、ヘタをすると飯抜きおやつ抜き、ビンタ、ゲーム取り上げの刑を食らう可能性もある。
最悪の事態としては、「親の言うことが聞けないのなら、この家にいる必要はない。荷物をまとめて出て行け」という伝家の宝刀が飛び出す。
来春高校生になる長男に、僕は何百回もこの宝刀を抜きまくってしまった。
「汚ね~なぁ。またそれだぜ」
長男が横を向きながらつぶやく。
「むむ。いま、なんて言った?」
かくして親子喧嘩の火ぶたが切って落とされることになる。
ここで肝心なのは、ただの喧嘩ではなく、「親子喧嘩」という勝敗が決まっている格違いの喧嘩であるということだ。
子どもは勝つことはできないし、差し当たって勝ってしまっては、まずいのだ。
これは、どこか夫婦喧嘩の構造に似ている。
最後は、子どもが、あるいは男が詫びなくては決着がつかないわけ。
それを本能的に察知している子どもたちも、気分屋の親のわがままへの対抗手段として、親以上に理屈不問で、捨て身の戦いに打って出るわけ。
2、3歳児の頃は、なんでも「イヤ!」を繰り返して、親の許容度の限界点と自分への注目度を試す。
4、5歳児は、「なぜ?」「どうして?」を繰り返し、だんだん見えてきた親の身勝手な答えをチェックする。
「早く、ご飯を食べなさい」
「なんで?」
「早く、着替えなさい」
「なんで?」
「保育園に遅れるからでしょ」
「なんで?」
次の答えで親の本性がついにむき出しになる。
「保育園の先生にしかられるから」 →体面を気にしている。
「会社に遅刻するから」 →そう、自分の遅刻が気になるんだよね。
「そんなことでは、いいお兄さんになれないよ」 →そもそも「いいお兄さん」というイメージがピンとこないよね。
「なんで?なんで?って、しつこいぞ!」 →ほら、キレて本音が出た。
中学生の場合。
「おい、飯だぞ~」
「・・・」
「お~い、聞こえてるのか~」
「・・・」
「こら。返事しろ」
「あ~」
3分後
「何回言わせるんだ。もう食わなくてもいい。勝手にしろ」
「めんどくさいなあ」とぶつぶつ言いながら長男が食卓につく。
「お前なぁ。毎回毎回、何度言わせるわけ?」
「じゃ、言わなきゃいいじゃん」
次の答えで親の本性がむき出しになる。
「それを言うなら、一回で食卓につけよ」 →結局何度も呼ぶのが面倒なのだ。
「なんだと?それが、ご飯作った人への言葉か?」 →作ったことへの感謝が欲しいのだ。
「そんな面倒くさいのなら、食べてくれなくてもいいんだぞ」
「言いたいことは分かった。じゃあ、何も言われない世界を探す旅に出てってくれ」 →そんな世界ないよ。言いたいことも実は分かっていない。
どちらのケースも、案外低レベルの喧嘩の域を出ていない。
「親」という看板、お面を付けていると、どうしたって「子どものため」という大義名分に甘えて高みから叱ることになってしまう。
だから、この際、喧嘩する時は「親」という立場を捨てちゃったらどうだろう。
「親」なんていう意味不明な荷物はできるだけ軽くして、「親」である以前に「自分」でいられることのほうが、楽、ということ。
子どもを叱るのは、基本的に自分の感情に任せる。
親をひけらかす理屈を使わずに叱るとしたら、感情的にならざるをえない。
感情的なぶつかり合いなら、いつか冷めて、我に返ることができるけれど、言葉の喧嘩は、いつまでも後を引く。
ここ最近、毎晩毎晩、僕は中3の長男とぶつかり合っている。
さすがに体力勝負は危ないので、言葉の応酬だ。
僕は彼にとって、世の中の理不尽さを思い知るための最後の砦なのだ。
毎晩やっていると、どうも新鮮味がなくなるし、スタミナも切れてくる。
だから、こちらの気分とスタミナに合わせて、瞬間的に暴発し、3分後には、何を叱ったのか忘れてバカ話に花を咲かせる、というパターンが増えつつある。
高校生になったら、いったいどんなバトルが待っているのか想像したくないけれど、やはり素の自分をさらけ出すしかないのかなぁ、と思う。


2件
ももんちゃん
2008/10/10 22:42
あついぜ、父ちゃん!
思春期の子どもはどんなものなのか、少しだけ想像してみることができました。
素の自分でいくしかないですよね~、かっこつけるとすぐにばれちゃいますし、そんな親は見たくなかったですもんね、私自身。
家で感情的なってる親もなかなかいいもんですよね。それだけ真剣ってことですもん。
しまうま
2008/10/15 13:37
中高生のころ、どうしてあんなに親が鬱陶しかったんだろう…。
なんか、ストレスのはけ口っていうか、他人にはできないような酷い自分をぶつけちゃったよ。
ずいぶんひどい言葉も投げつけちゃったし、かなり傷つけたんだろうなぁ、って今からでもジジババに謝りたくなりました。
そういう私も、今や13歳の男の子の母。
田中パパの気持ち、よ~く分ります。キレた息子には、こっちもキレてしまったほうがいいんですね。